昭和49年10月24日 朝の御理解
●②


御理解第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」



 まめな時、元気な時、いうならば平穏無事という時、稽古をしようと思えば何ででも稽古の出来る時、そういう時に本気で信心をしておけというておられるんですけれども、まあ、私共の場合は、平穏無事の時には稽古ができない、ね、かえって何か困った事が起こったとか、というような時、云うなら、難儀な時に慌てて神様というような向きがだいたい多いように思います。
 ですから、ここんところを、皆忙しいものやら、ね、毎日勤めに出ておる者やらは、参って来る訳には行かん、また病人があったりすれば、なおさらの事お参りが出来ん、ね、という所だけを頂きますと、(   ?    )、信心がこう、言うなら、自分のよか時だけ信心の稽古は、するなら、自分の都合の時にお参りをするのだという風に聞こえますけれども、実は、なるほど自分の都合の良い時というか、いうなら、別に神様にお願いをすることもないほどしにおかげを頂いておる時に、ですから、だいたいそれ大幅皆さん多い訳です、そういう時には、あの、他のこととも、まあ、やっておると、いうようなことがお互いに多いようです。
 ここへは信心の稽古をしに来るのである、一番初めの所もそこです、参るなら毎日信心の稽古をしに皆さん合楽に通ってくるというんですけれども、果たして本当に稽古に通ってきておる人が何人おるだろうか、本気で稽古をしておるという事は非常に有り難いですね、最近はこうして皆さん新しい方達が多いんですけれども、こっから皆さんが御祈念をなさっておられる、祝詞の本をこう広げて、ね、その祝詞を知っておるやらないです、最近皆さん始められた方だからですね皆さん、その方達が一生懸命それを見ながら、皆さんと一緒につけていきよんなさると言うと、何かここで非常に感動いたしますですね、いわゆる、本気で稽古をしようと、それはおかげを頂かなければならんから一生懸命参ってくる、おかげを頂かなければならんからこの祝詞も覚えようというのかも分かりませんけれども、そのお祝詞を奏上する稽古をしておるという事も、やはり信心の稽古です、けれども、その、祝詞を覚えようとも思わないというのであったら、これはもう稽古が稽古になりませんですね、だから稽古はそういうところから一つ本気でさせてもらわなきゃいけません。
 お祝詞を覚える稽古、やっぱ信心の稽古の、いうなら第一歩の所じゃないでしょうか、俺は一年も参りよるけれどもまだ大払いが一人であがらんといったような事では如何に自分が稽古と言う事に焦点をおいてないかということが分かります。
 同時に稽古ですから、ね、ここで頂いた、いうならば、ここで稽古した、勉強したという事をです、内に帰ってそれを予習復習をするということ、ね、そういう私は、あの、稽古をしていかないと信心が有り難い、楽しゅう言う風になってこないと思う。
 これは何の稽古でもそうです、本気で稽古をする気になってまいりますとね、いうならば、もう、仕事が仕事を教えるという風に、一生懸命稽古をしておりますとです、ね、いうならば、信心が信心を教えてくれる、そういう楽しさが、ね、信心の、いうならば、もう今日はじめてこの所を分からせていただいたといったような人達をです、稽古に取り組んでおるから、はぁーそげなん所が分かったかと言うような風に分かるのです、ね。
 ただおかげを頂かなければならんからお参りをしておるようですけれども、ならそれだけではです、ただお参りをするだけ、帰ってからも稽古をしないから、信心の楽しみと言うような喜びというものはついてこない。
 昨夜、昨日聞かせて頂きましたら、矢部の矢部川の一番上流のところの村だそうです、いよいよ山々の中ですね、後藤さんが自分の車に乗れるだけ、四人だけ乗ってお参りをしておられる、それで、この次には自分達も今度はお参りをさせて、つれていってもらう、こうこうというて話を聞いた方がね、はぁーそれなら自分も参りゃ良かっ、そげんなん有り難いおかげを頂けれる所をまいりゃ良かったという方が、その後を追って二人で参ってきた、夫婦で参ってきておられました。
 それがどういうことかというと、う~、その方はずうっとこの腰が痛い、いいよるだそうです、ね、だから、それを一つお願いし、どうでもおかげを頂かにゃらんと思うて、その参って、丁度お祭り半ばだった、お祭りを頂いてから、お祭りが終わった時にちょっとこう立ったら腰が痛くないちいう、それで私はもう休んでおりましたけれども、裏にどうね一つ私にあってお礼をいわんならんというので、あの、裏のほうへ見えられまして、しばらくお話を頂いて、帰られましたけれどね。
 だから、そういう例えば、この、おかげを受けるという事でもです、ね、もう自分の心が神様に向こうておる時には、神様がもう受けてござるという感じがします、だから、自分の心が神様に向かうということが信心ですし、同時に信心の稽古はそこから育っていくもんです、ね、自分の心は神様に向かう、皆さんがこうやってお参りをしてくるから、なら自分の心は神様に向こうておるかというと、ね、神様へは向かってはいない、ね、というような場合がありはしないだろうか、やはり検討しなければいけません、ね、しかも、神様へ向こうて、わが心は神に向こうのを信心というのじゃと言われるのですから、わが心が神へ向かって一歩一歩近づいていくという事、ね、それが稽古なのです。
 今日も信心の稽古に通わせて頂こうと、いう稽古に通う、いわば、楽しみというものがあるだろうか、稽古ごとですから、やはり辛い時もある、けれども、そこを押して稽古させてもらう所から稽古の楽しみがあることを体験させて頂くようになったら信心も、いうならおもしろうなってくる、ね。
 私は信心はそれこそ楽しゅう、まあ、いうならば面白う、信心がわかっていくことが面白い、ね、日にちの家庭生活の上にも、信心の稽古の材料が一杯ある、それが信心を持っていくときに、なるほど、お話に頂くようにいっぺんにおかげになるという事はないけれども、それを繰り返し繰り返しておるうちにそれが本当な物になっていく、ね。
 今日私はご神前で●②、あの、おのの豆腐のこう傘を持って、それから、カエルが柳の枝に飛びついておる絵がございますよね、それが、柳の枝がね、たかーいところなんですよ、もう下へこう下がってないです、ね、それに向かってカエルが一生懸命飛びよる、これは絶対稽古にはなりませんよ、ね、やはり、取り付けるという、ね、いう、その、まあ、いうなら、自身のようなものがあって稽古するのじゃなかなければ本当の稽古にはなりません。
 私はそんなお知らせを頂いとったから、どいうことだろうかと思うておったら、この信心の今日は稽古という所の71節を頂きましたから、ね、そこんところを今日みなさんに分かって頂こうと思って今日は聞いて頂きました。●ね。。
 自分のとてもどげん稽古、そこへ届くはずもない所へ向かっていくら飛んだって、飛んだって、それは対して稽古にはなりません、ね、言うならばです、実際の、何というんですか、その、実物とでも申しましょうか、実際問題と言うものを持って信心の稽古の対象としていかなければいけないということです、どんなに高尚な事が分かったってです、ね、ただ分かっただけで、ね、柳の枝が上からたれておる、もう地上軟弱までこうたれておる、それに向かって、例えば、ならカエルが飛んでおるならばです、ね、一部あがり、二部上がりで最後にはやっぱり飛びつくことが出来るおかげになりましょう、葉の一部、まあ、一部と思うて、楽しみがあるです、けれどもこんな高い所にある所をです、ね、いくらにこう飛びついたところで、いくらお参りをしておっても、それは、いわゆる、稽古にはなりません、ね。
 稽古はやはり頂いた教えをそのままです、自分の問題に当てはめていくという生き方、ね、それが、ならいっぺんにおかげになろうとは思いませんけれどもです、ね、いうならば、ね、病気でいうならば、はぁー本当におかげを頂いて、例えば楽になったと、ところがあくる日はまた元に戻っておった、はぁーこれはまだ自分の心は間違(まちご)うとるとばいと思うて、まあ、またおかげを頂く、というなんです、こう、いうならば、この信心の稽古というのは(波状方はじょうがた)です、ね、伸びる落ちる、伸びる落ちるが段々こう伸びていくというようなですね、あの、私は在り方を辿らせて貰うものだと思うんです、稽古の、これは何をしてそうですけれど、いっぺんにすうっとこう登れるはずはありません、ね、同時に、いうならば、ね、その、自分にはとても届きそうにもないような事をおかげの焦点に、信心の稽古の焦点にしたって、それは無駄な事です、そういう信心では、いわば、無駄ですから、ね、実際問題に本当に取り組んで、それを少しづつおかげにしていく事実をね、自分で体験していくというような稽古をすぐさせて頂きたい。
 それにはまず、今日も本気で信心の稽古をさせて下さいと。ここの村内の久保山さんです、此の方も、毎朝、今日もどうぞ成り行きを大切にさせて下さいと云う事を実に見事にね、あの、お届をなさるだけではなくて、その日その日の出来事を、もう、ね、どの程度にすっきりと頂けるかと、成り行きを大事にしよるかということに焦点を於いておられるようです、もう毎日お届けがあります、ね、そういう生き方をね、身に付けてまいりますとです、いわば、成り行きを大事にするということがどんなに有り難いかということが分かってまいります、ね、もうそれが楽しゅうなってくるです、ね。
 ですから、とにかく、今日はならどういう生き方の稽古をさせていただくだろうかというところに信心のお参り、そして、御教えを頂くと言うのですから、今日もどうぞ、一番はじめに、ここへは信心の稽古に来る所、ここにはおかげを頂きに来る所とは仰っていない、信心の稽古が出来る、それにはおかげが伴う、これは、いうなら、まあ、理の当然のおかげであります、最後にも、ね、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと最後にも、信心の稽古をさせて頂くことをもって締めくくってございます。
 稽古に、いわば、始まって、稽古に終わるという訳です、これは朝起きる時から、晩休むまでが信心の稽古、ね、そこに本気で稽古をした時にはです、いわば、何と言うんですかね、本当に有り難い、ね、言うならば、信心の稽古の有り難さと言うか、または楽しさというようなものが身に付いてくる、さあー明くる朝も、明日も稽古に通わせて頂くぞという、何か知らん、生き生きとしたお参りが出来るというものです。
 ここへは信心の稽古に来る所であると教えられてありますから、一つ本気で稽古に見えな、ね、そして本気で信心の稽古をさせてもらう、とてつもない所に目当てをおかずに、もう手元の所、自分の足元の所の材料を持って、本気で稽古しなければならんということを聞いて頂いた訳ですね。
            どうぞ。


平成17年10月8日
末永静行